天使の運ぶcoffee


 アンティーク調の照明が視界をセピアに染める。
 落ち着いた店内。漂う芳しくも繊細なコーヒーの香り。趣味もムードも悪くはない。
 こじゃれたジャズのメロディがそれを一際引き立てる。
 整っていた。
 その窓辺の角の席に座る一人の男を除いて。


 その男は20代半ばで、宗次郎という。いわゆるフリーターだった。
 無造作に伸ばした長髪は乱暴に括られていて目つきは獣のごとく鋭い。そしてどこか粗暴さをまとっている。
 繊細さには欠けるものの、もっと笑えば、あるいは美形と言える顔立ちかもしれなかった。
 けれどもやはり、この喫茶店には似合わない。
 彼の纏う雰囲気のためか、その身を包むジャージのためかは分からない。
 しかし少なくとも彼は、自身がこの空間において浮いた存在であることを知っていた。
 それでも通うことをやめない。
 毎週決まった曜日にここに来るのが、彼の習慣となっていたから。


 ドアを開けると出入りを知らせるベルが鳴る。たまたまカウンターにいた無愛想な調理人の少しの敵意を滲ませた「いらっしゃいませ」を耳にそれを気にも留めず向かうのは、彼のお決まりの、窓際の角の席。
 店内を見回して、外を眺めて、腕を組んで、足をぱたぱた鳴らして、時折カウンターの方を見る。その様子はとても忙しない。
「いらっしゃいませ!」
 同時に、テーブルにコップが置かれた。宗次郎がびくりと肩を震わせる。それだけの動揺を隠して、彼はやって来たウェイターに目を向ける。
「こちらメニューです。注文が決まりましたら呼んでください。ではごゆっくりどうぞ」
「……おう」
 ずっと下を向いたままそれだけ呟いて受け取る。
 宗次郎はほんの一瞬のこのやり取りのためだけに、この店に通い詰めていたと言っても過言ではなかった。
 上げた視線がとらえた、細い腰つき。健康的な白い肌。人目を引く金色の柔らかそうな髪。何度か垣間見た、透き通るような青い瞳。
 自分とは何もかもがまるで違った。その感情はある種の憧れでもあった。


 はじめて彼に出会ったのも、この喫茶店だった。
 ここの調理担当とは不本意ながら旧知の仲であったから、冷やかしがてら気が向けば訪れた。
 その日もいつものように適当な席に腰かけて、メニューが来るのを待っていた。
「いらっしゃいませ」
 聞きなれない爽やかな声だった。テーブルにお冷を置いたウェイターを見上げて、宗次郎は言葉を失った。
「お水でよろしいですか? ええっと、こちらがメニューです」
 人目を引く金髪に碧眼。日本人離れした顔立ちと白い肌。人形のようだ、というのが、一番の感想だった気がする。
「本日から新メニューが……わぁあ!?」



 その"彼"がメニューを開いた拍子、挟まれていた限定商品のメニューがばらばらと落ち、
水の入ったコップを倒してしまった。
「っつめたっ――!」 「あああ、ごめんなさい! 申し訳ありません! 今すぐ拭くものを……!」
「あ、いや……」
「冷たくないでしょうか……! いや冷たいに決まってますよね、本当に申し訳ありません!」
 "彼"はそう言いながら机を拭く。今にも涙が浮かびそうなその表情に、宗次郎は我に返った。
「だから構いやしねえって……、その、新入りかお前」
「はい、今日からで、働くのは初めてで……いえ、でもそんなの言い訳になりませんから……!」
 "彼"はまだ泣きそうな顔でいる。どう言葉をかけたらいいものか、未だ"彼"に見入ったままの宗次郎にはわからなかった。
「どうかしたのか」
 見知った顔の調理係がカウンターの奥からやって来た。その目は"彼"ではなく宗次郎に向けられている。怒りのような何かが見え隠れしていた。
「先輩……! 私がこちらのお客様の水をこぼして、服を濡らしてしまったんです」
「何だそんな事か。俺はてっきりこの筋肉バカが新入りバイトをいびってたのかと思ってな。気にすんな、こいつはそんな事気にしやしないさ。ボロいジャージの一枚や二枚で」
「あぁ? 客に向かってなんて口のきき方だテメェ」
「何を今更」
「あ、あの、喧嘩はやめてください! 私のせいで……申し訳ありません、本当に……お客様、先輩」
 おろおろしながら彼が止めるので、2人は黙るほか道をなくしてしまった。
 宗次郎は目を逸らす振りをしながらちらりと"彼"を見る。なぜかじっと見つめることができない。直視できない。
 なんとなく、彼をそこまで悲しませてしまったという罪の意識がそうさせるのだろうか。
「……帰る」
「何だと。また冷やかして終わりか」
「うるせえ。気分じゃねえんだよ」
 席を立った宗次郎の行く先を、"彼"がふさぐ。宗次郎はたじろいだ。
「あの、よろしければクリーニング……!」
「いらねえよ」
 宗次郎はに冷たく告げて、"彼"を押しのけ店を後にした。


 その翌日のことだっただろうか。太陽が一番高い位置にある時間であるというのに、肌寒い日だった。
 宗次郎はいつものように、道路工事のバイトに勤しんでいた。
 一旦作業を止め、伝う汗を拭う。
 はっと息を飲んだ。
 道路の向こう側に、昨日出会った彼が見えたからだった。
 金髪も、周りの友人に振りまく笑顔も、とても煌めいていた。
 少し大人びて見えた気がしたけれど、どうやら高校生であるらしいことが纏う制服から見て取れた。
 輝いて見えた。
 彼が建物の影に消えるのと同時に我に返って、宗次郎も再び地面に向き直った。
 
 出会いから幾許かの時が過ぎた。宗次郎は通い詰めるようになっていったが、未だにまともに会話できないでいた。
 ただただ気にかかった。冷たい態度をとってしまった自覚があったためだ。どうにか謝罪しようと尋ねるが、声をかけるだけの勇気もチャンスもなかった。
 彼はメニューを置くとすぐ去ってしまうから。
 この席に必ず座るのにも、きちんと理由があった。影になったこの席はあまり他の客の目につかず、しかししっかりとカウンターからは見える席。自分は場違いだと気づいていた彼には好都合な席で。
 そして何より
 この席からはコーヒーや紅茶を淹れる彼の姿が、よく見えた。


 すっきりと晴れた、しかし優しい日差しの日だった。
 コンビニ帰りの彼の背中に、柔らかな声が投げかけられた。
「こんにちは」
 喫茶店の、彼だった。バイト中らしく制服で、紙袋を抱えていた。
「あの、いつも来てくださってありがとうございます!」
「……ああ」
 振り返った彼は、驚いた表情のままそう言葉を返した。
 そう返すのが、精いっぱいだった。


 
 何も変わらない日が続いて、また数日経った。
 彼の容姿端麗さは口コミで広がったようで、店には洒落た女性の姿が多くなった。
 少しいずらさを感じることもあったが、そんなことすぐに気にしなくなった。
 宗次郎は今日も、彼が運んだコーヒーを飲んだ。

 最近よく、同じ男と出くわすことが多くなった。なかなか女受けの良さそうな、長身の男だった。
 男はカウンターの席に腰かけて、彼といつまでも話をしていた。
 悪友に聞けば、彼目当てに来ているらしいことが分かった。
 羨ましく等はなかったけれど、少し悔しかった。それがどうしてかはわからなかった。
 2人の会話から、彼が高校生で、男がそこの講師であることを知った。
 彼と男がよくわからない言語で楽しそうに話していた。後々、他の客に帰国子女であること、ハーフであることを話していたのが聞こえてきた。

 きっかけがつかめなかった。
 目を合わせれば睨んでしまいそうな気がして、さらに嫌な客だと思われてしまいそうで。
 宗次郎はまだ、彼の本名すら知らない。



 その日も、彼は同じように店を訪れた。
 いつになく混んだ店内を、彼が忙しなく動き回っていた。カウンター席に男はおらず、席は殆ど埋まっていた。
 これでは、いつもの場所も誰か座っているのだろうな――。
「いらっしゃいませ! こちらの席どうぞ!」
 そう声をかけたのは、トレイを脇に抱え微笑みに疲労を滲ませた彼だった。宗次郎は無意識に一歩身を引いた。
「あ、あの……?」
「な、何でもねえよ……!ほら、どこの席だ」
「はい、こちらです」
 そう踵を返した彼の表情が少し憂いを帯びた気がして、宗次郎はしまったと頭をかかえかけた。

 通されたのは、いつもの席だった。奥まったところにあるこの席が最後まで残っていたのはいささか不思議だった。
「コーヒー……」
「かしこまりました、少々お待ちください」
「あ、いや」
「え」
「その前に、カレー――……」
 メニューを返しながらちらりと見た彼は、少し驚いたような顔をしていた。
「何だよ」
「あ……いえ、その、そ……お客様は軽食をオーダーなされたことがなかった気がして……」
 そう言う彼の表情がみるみるうちにほころんでいった。神々しくて、あどけなかった。
 宗次郎が慌ててふいと顔をそむけるのと、彼が失礼しますと背を向けたのはほぼ同時。
 頭から、笑顔が離れなかった。

 それから何十分か経った。頼んだ食事は来なかった。
 宗次郎が苛々し始めた頃、静かな店内に怒号が響き渡った。
「おい! どうしてくれるんだ!」
 中年の男の声だった。続いて、彼が「申し訳ありません!」と謝る声が聞こえた。

 しっとりとしたクラシックが流れる店内。憤慨した様子の中年の男が足を踏み鳴らして出て行った。
 その男の背に、悪友と彼が深々と礼をしている。
 何があったかは分からなかったが、彼が失敗したのだと、それだけは分かった。
 彼の目は伏せられている。胸を何かが突いた気がした。

「申し訳ありません、遅くなりました。こちら、ご注文のカレーライスです」
 器がテーブルに置かれる。しかし宗次郎の意識はそこにはなかった。
 いつもならこちらを見つめて逃さない、宝石のような青の瞳が下を向いたままだったから。
 だからこそ、今、宗次郎は彼を見つめることができていた。
「では、」
「――おい」
 去りかけた彼の手を、宗次郎は思わず掴んでいた。
彼がはっと息を飲んで、宗次郎を驚いたような目で見つめた。
「その、あれだ。失敗とか気にしないで頑張れよな。俺もその、気にしてなかったし、いやそれ以上にあの時は」
 そこで口を噤んだ。自分が何を言っているのかわからなくなった、というのもあった。
 しかし何より、彼がひどく呆気にとられた顔をしていたことに気付いたからだった。
「なんだよ」
「いえ、あの――」
 宗次郎のついてでたような悪態に、彼はたじろぐ。驚きにじわじわと柔らかな笑顔が滲み行く。
 目元を少し潤ませて、彼は破顔した。
「はい、頑張ります! ありがとうございます、宗次郎さん!」
「ッ!?」
 照れたように頬を染めた彼は、宗次郎に深く一礼した。彼は宗次郎の名を自然と口走っていたことに気づいていなかった。
 すぐ踵を返した彼を、宗次郎はしばらくそちらの方をぼうっと眺めていた。
 呆けたように、妙な感情に胸を高鳴らせて。

 少しして、彼がコーヒーを手にやってきた。
「こちら、食後のコーヒーです」
 宗次郎は彼から必死に目を逸らし続けていた。
「それと、」
 テーブルに、もう一つ器が置かれた音。宗次郎は虚を突かれたように目を剥いた。
「先輩から、モンブランです」
「なっ……!?」
 言葉を失った宗次郎に、彼が慌てた様子で続ける。
「あの、お客様に慰めていただいたと報告したら先輩も喜ばれて、好物だから持って行けと……」
 宗次郎は目の前に置かれたそれを凝視する。顔を赤くして青くして、それを何度も繰り返した。
 恥ずかしい。俺のような男が、モンブラン。モンブラン。
 確かに、好きだった。彼を見かけるようになるまで、2回に1回必ず注文するぐらいには好きだった。けれど彼が来てからはやめた。
 軟弱だとか女のようだとか、決して彼には思われたくなかったからだ。
 だというのに。だというのにあの男は。
「あっ、もちろんお代はいただきませんので……!」
 そう言う問題じゃねえ。硬直した宗次郎。彼は訳が分からず困惑している。
「も、もしかしてモンブランはお好きではなかったですか!? 申し訳ありません、私も宗次郎さんのような方が食されるとは思えなかったのですが……!」
「……」
 そうか。やっぱり俺がこんなの食うのは、おかしいのか。
 じわりと、胸に不快な何かが広がった。宗次郎の表情が変わったけれど、彼はその奥に隠れた真意に気付くことはできない。
「あの、どうか喧嘩なさらないでください。先輩、本当にそ――、お客様のことを気にかけてらっしゃいまして、本日もこの席を限界まで開けておくように指示したのは、先輩なんです」
「何?」
「先輩が、宗次郎さんは"お前がシフト入ってる日は熱出しててもはい出て来るから一応あけて様子見とけ”と仰いまして」
「ッ!?」
 宗次郎が椅子を蹴って立ち上がった。ほぼ無意識の行動だった。
 はっと我に返って彼を見る。落ち着いた瞳はひどく動揺していた。
「ばっ! ちげえよ!たまたまだっつの! お前がいるとかいねえとかかんっけーねぇし!どんだけ自意識過剰なんだっつーの!」
 彼がきょとんと目を丸くした。顔がひどく熱い。なぜ自分はこんなにも必死に言いつくろおうとしているのだろう?
 何を言っているのか分からない。
「 っつーかおめえ失敗しすぎじゃなんじゃねえの? ここきて1か月経つだろ、何度説教食らってんだよ! お前こういうの向いてねえんじゃねえの、いいかげんやめちま――」
 自分の発言の最低さに気付いたのは、すべてを言い終える直前だった。
 彼はこちらを見ていた。ただ愕然と呆然と、宗次郎の目を捉えて逃さなかった。
 宗次郎の視線が泳ぐ。自身、愕然としていた。自分が信じられなかった。
「ッ……ちがっ……」
 彼はもう、こちらを見ない。
「くそッ…………!」
 宗次郎はテーブルを蹴飛ばしたい衝動を抑えて、立ち尽くす彼を押しのけ入り口のドアへ急いだ。

 
「くっそ!」
 ドアを乱暴に開けて、古びたスニーカーを脱ぎ捨てる。築38年のこのアパートが彼の住まいだった。
 狭い室内は一見ごっちゃりとしていたが、それなりに整頓されていて床に物が散らばっていたりするわけではなかった。
 宗次郎はすっかり反発力の無くなった布団に寝そべった。
 途端、ケータイに着信。
 一瞬妙な期待をして手に取ったが、表示されていたのはあの喫茶店または悪友の名ではなく「母」の文字だった。
 心のどこにもそんな余裕はなかったが、一つため息をついてメールを開く。
「……」
 ケータイを勢いに任せてぶんなげた。
 とっととまともに就職して働けだとか、嫁はまだかだとか、そんなことばかりだった。
 どうでもよかった。自分の事は今はどうでもよくて、ただ、彼を傷つけてしまったことだけが辛かった。
 生まれてこの方、自己嫌悪に陥ったのはこれが初めてだった。
 彼は見た目が弱そうなためか、妙な客に絡まれることも少なくはなかった。髪の色だとか顔立ちだとか、難癖つけられていたこともあった。それでも彼は、その後の接客に感情を引きずるようなことはなくて、何事もなかったのようにいつも通り微笑んでくれた。健気だった。
 見た目が美しいせいか、女性客に絡まれることも多かった。長話を聞かされて仕事が滞って叱られても、決して客を恨むようなこともなくて。
 子供が食べる前のケーキを落としてしまえば、言われる前に取り換えていたこともあった。それは自腹だったと聞いた。
 彼は優しすぎた。
 だから、ある意味では本当に向いていないと思っていた。
 けれど、そんなつもりじゃなかった。あんな雰囲気で、あんな勢いに任せて言うべきことではなかった。
 後悔しても、遅かった。


 それか一か月ほど、宗次郎があの喫茶店に行くことはなかった。
 厨房の奴から連絡が来ないこともなかった。話がそちらへ向いそうになったら、曖昧に濁して返信して、適当に突然の理由を作って電話を切った。
 初めのころに一度だけ、彼にすまなかったそんなつもりではなかったと伝えてくれと、そう頼んだのが最後だったと思う。

 やっとこれではいけないと思い立ったのが、ちょうど1か月後のことだった。
 店に行くと、フロアに彼の姿はなかった。
 厨房の奴は告げた。
 やめたのだ、と。
 食いかかるように理由を尋ねたが、宗次郎のせいではないのだ、と。
 彼は高校の交換留学生というやつだったそうだ。母国へ戻ることがもともと決まっていたのだ、とも言った。
 それでも宗次郎はあの一言が関係している気がしてならなかった。
 赤の他人であるはずなのに。向いていないことは事実であるはずなのに、負い目を感じて仕方がなかった。
 後悔は先に立たない。もっと早く来るべきだった。
 もう、彼はいないのだ。輝かしく眩しい彼は、少なくともここにはいない。ここで会うことはきっともう、ない。
 もしかしたら彼は遠くの地へ行ってしまうのかもしれない。
 もう二度と、言葉を交わすことはないのかもしれない。
 ひどく、後悔した。
 心臓に何かがつかえたような、そんな感情を憶えた。


 
 宗次郎はその日から、彼のいない喫茶店で、彼でない誰かが運んだコーヒーを飲んだ。