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闇が深い夜。 月はやや低い位置にいて、ちょうどそれを木々の間からを照らしていた。 醜く折曲がった翼。 漆黒は薄汚れて見る影もない羽。 流れる血。 弱弱しく細められ、濁った瞳。 視界はかすみ、意識も途切れ途切れになったそれはただ動けずにいる。 どうしてこうなったのかは言うに易くない。 ただこの命が幾ばくも無いことだけが、紛れもない事実だった。 命尽きるその時を待つことしかできないでいる。 生きたいと思った。 まだ死ぬには早いと思った。けれど彼は、抗うだけの術を持っていなかった。 この死を待つだけの時間が、この醜い姿をさらしたまま死に逝くという事実が、何より苦痛だった。 熱を持つ傷口。 時を経るほどに低くなる体温と、穏やかになりゆく心音。 すぐそこまで、死神が迫っている。 その時だった。 降り注ぐ月光を、唯一の光を、何かが遮ったのだ。 その姿は影になっていてよく見えない。恐怖はなかった。今更だった。 ただ自分以外の何者かがそこにいるという事実が不思議だった。 『あなた、怪我をしているのね』 その影は可愛らしい少女の声で囀る。 耳に高圧的な響きが滲んで、消えた。 ふと、動きの鈍った脳裏を過ったのは、"死神"の2文字。 連れていかれてたまるか。 折れた翼を、曲がった足を、くちばしを、がむしゃらに動かした。 逃れられるなんて思ってなかった。それでも、何もしないわけにはいかなかった。 しばらくそんな俺の滑稽ともいえる姿を見つめていた影は、ひどく愉しそうに口の端を持ち上げた。 『ねえ、あなたの傷を治してあげてもいいわよ?』 突然の言葉に耳を疑う。反射的に体が動きを止めた。 こいつは何を言っているのだろう。 彼のの様子が気に入ったのか、影はさらに少し上ずった声で言い放つ。 『私のお願いを聞いてくれるなら……ね?』 ぎらり、_と自分の瞳に力が宿ったのが分かった。 空を飛びまわっている時のような言い知れぬ高揚感が、彼を飲み込む。 『嫌ならいいのよ? あなたはこのまま躯と化すだけ』 一瞬、闇の中で目があったような錯覚を覚える。 影は続ける。囁くように。 『ねぇ、どうする?』 影の手が、そっと彼の翼に触れた。 不思議と嫌ではなかった。 『生きたいのなら――――――』 私の下僕になって? とある国に、『癒しの魔女』と呼ばれる者がいた。 彼女はそれはそれは怠惰な魔女だった。 いつしか、彼女の側には常に黒い影が寄り添うようになる。 人々は口々に言った。 あれは、魔女の下僕であると。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 「………ラウ」 頭の片隅で、その声を聴いていた。 「クラウ」 「起きなさい、クラウ」 相変わらずのふてぶてしい声色――シエルか。 「クラウ、いい加減にして」 「んー…ッ…?」 これが現実だと気づいたクラウは、ゆっくりと体を起こした。 辺りを見回す。すぐそこには椅子に優雅に腰かけたままこちらをじっと見据える主人の姿があった。 「こんな簡単な命令も聞けない下僕なの?」 プラチナブロンドの髪。さわやかな晴れの日を思わせる透き通る青の瞳。 彼女こそがクラウのマスターで、誉れ高き”癒しの魔女”ことシエルだ。 数年前のある夜の日、深い傷を負った俺は偶然深夜の散歩にやってきていたあいつに救われた。 普段は部屋の中を歩き回ることすら面倒くさがる魔女との出会いなわけだから、まあ運命と言えなくもないのだろう。 そんな彼女でも、命を助けてもらったことはありがたいと思っていた。 その彼を救う際の条件というのがまた厄介なものだった。 "契約して使い魔となり、下僕として付き従う事" それが、生きるか死ぬかの瀬戸際にいた彼に突き付けられた生きるための必要条件。 彼は結局生きながらえることを選んだわけだが、正直選択を間違った気がしないでも――。 「クラウ。そこの本をとってちょうだい」 「ああ…へいへい」 少しは動け、と思いながらその本を取るべく前に向き直った。 目の前には癒しの魔女に宛てられた手紙が散乱している。 内容は治療を施した者からの礼を述べた手紙や、傷を治してほしいという依頼、その他諸々。 この中の一体いくつが魔女本人の目に触れるのだろうか。 哀れな紙束を尻目に、俺は積み重ねられた本の中から一つを抜きだし、シエルに差し出した。シエルはさも当然と言った様子でそれを受け取る。 この魔女は怠け者だ。 仕事する気がありゃしない。 手紙を読むのも、その内容を伝えるのも、予定を決めるのも、家事全般も、殆どが使い魔の仕事。 そんな困った無気力な主人だが、今日は珍しく自分から客を呼んだそうだ。 どうせ今回も俺に迎えに行けと命令するだろう――そう嘆息したと同時に、来客を告げるチャイムが鳴った。 下知が下る前に立ち上がったその時、 「待ちなさい」 訝しんで振り返った俺は自分の目を疑った。 「私が行くから、あなたはいいわ」 あのものぐさマスターが立ち上がって、自らの足で客を出迎えに向かおうとしていたのだから。 ノックの音が何度も響く。 玄関につくと、俺が手を伸ばすより先に、シエルがドアノブに手をかけた。 「今開けるわ」 軋んだドアが、ギィと音を立てる。 「やあシエル。お久しぶり、だね」 そこに立っていたのは、無造作に伸ばした赤毛を括った魔族の男だった。頭から2本の角がにょっきりと生えているのがその証だ。明朗そうな印象を受けた。 「ええお久しぶり。さあ中へどうぞ。相変わらず散らかっているけれど」 クラウはどこか蚊帳の外にいる気分で、男もシエルも、口元に穏やかな笑みを湛えていた。 室内へ足を踏み入れた男と視線が交差する。 男は虚を突かれたような目で俺を見た後、微笑んで口を開きかけたのだが、 「何をしているの? ……ああ、それは私の使い魔よ。気にしないで」 言葉を遮られた男は、微笑んだまま彼に会釈してシエルの後を追って行った。 来客があったには珍しく、クラウの出る幕はなかった。 「おい、茶でも」 …いらないか。 客間へ行ってみれば、談笑の声に交じって陶器がぶつかり、かちゃかちゃと音を立てていた。 「まあ、そんなことが! あなたのところもややこしいのね」 初めて耳にした、ころころと鈴を転がすような笑い声が俺の意識をすべて奪い去った。 テーブルに向かい合って座る2人と、並べられたティーポット、カップ、菓子―――――。 どうにも違和感のある、納得のいかない光景だった。 あの癒しの魔女が、自らの手で人をもてなすなど、今までにはなかったのだ。 ……少なくとも、クラウがここへ来てからは。 輪に入ることも敵わず、かといって主人からの指示もなく、彼はただ無意味にそこに立っていた。 「なんだかんだあるけど、でも君ほどじゃないさ。毎日のように来客があるんだろう?」 「そうでもないわよ。暇な日は何もすることなくずうっと暇なの」 シエルは俺が見たことのないような笑顔を男に向けて――――。 それを見とめた刹那、腹の底がカッと言いようのない熱を持った。 じわじわじわじわ、それはクラウを侵していく。 「たまには、こうしてゆっくり話をするのもいいものね」 縫いとめられて詰まった胸。 冷えていくからだ。 早鐘を打つ心臓。 ノイズのかかった思考。 滅茶苦茶になった体は、まるであの時のよう。 「今日はいい話し相手が来てくれてとても嬉しいわ」 ――俺は話し相手にすらなれていなかったのか。 「私は怠惰な魔女とも呼ばれているけれど、大切な客人が来た時ぐらいはもてなさないとね」 ――いつもは俺にまかせっきりの癖に、なのにどうして、 「人に会わないというのも、寂しくはないけれどつまらないものね」 ――俺は、 彼の中で、何かが醜く燃え上がる。 自らの身を焼き付ける。焦がす。 苦しい。そして襲い来る、激しい自己嫌悪。 なんて醜い。 あさましい。 所詮俺は、取るに足らない下僕だったということ。 ――それだけだ。 何を勘違いしていたのか、俺は、 「ッ」 そのねじまがった感情のやり場を見失い、彼はいつの間にか部屋を飛び出していた。 ドアを蹴破ったかのような音に驚いた男は、弾かれたようにそちらを振り返った。 事態を把握すると向き直り、はにかみながら目の前の魔女を見すえた。 「…いいのかい?」 「何が?」_ 魔女は本当に何事も存ぜぬと言った様子で紅茶を口に含んだ。 男は困ったように眉をひそめて、自分の瞳とよく似た色のティーカップの底を見る。 「彼は、」 告げていいものか否か。 あえて超えないようにしている壁の問題に、自分が入り込んでいいものか。 視線を彷徨わせた先で、クッキーに手を伸ばした魔女と目が合う。 観念した男は、噤んだ口を再び開いた。 「彼は、君の可愛い使い魔は、僕と君の中を誤解したようだけれど―――、捜してやらなくていいのかい?」 「いいの」 あまりに簡単な魔女の言葉に、男は目を丸くした。 「帰ってこないかもしれないよ?」 「平気よ」 魔女の穏やかな光を宿した瞳が男を射抜く。 「だって私の下僕だもの」 何事か口にしようとした男だったが、結局言葉を飲み込んで一言、 「…そうかい」 とだけ呟いた。 男は彼女の瞳に映ったまた別の感情を黙殺し、冷めた紅茶に口をつけ飲み干す。 「さて、じゃあ僕はもう帰ることにするよ」 「あらどうして?気分を害してしまったの?」 立ち上がるそぶりを見せながら、いいや、と男は頭を振った。 「これ以上ここにいるのはなんだか野暮な気がして」 魔女は何も言わず目を細め、男は玄関へ向かって歩きはじめた。 「使い魔君を、大事にしてあげないとならないよ」 玄関先で、男は諭すように告げた。 「僕には、彼の気持ちがよくわかるんだ。―――それじゃあ、また」 「ええ、またね」 片手を上げて去った男を見送ったシエルは、少しの間空を仰いだ後、ゆっくりと踵を返した。 深夜。 開け放された窓からは月光が差し込み、かの魔女の顔を鮮やかに照らし出していた。 穏やかな風がカーテンを揺らす。 ――と。 窓辺に現れた大きな影が、月の光を遮る。 影はゆっくりと、音一つ立てず部屋の中へ降り立つと、少しの間横たわる魔女の顔をじっと見つめていた。 自分の事など少しも気にかけず、いつも通り眠りにつくその姿に、言いようのない寂しさと虚無感が拭えない。 俺のことはどうでもいいのか。あの男の方が、いいのか。 ああ、俺の気も知らずに。 ふわりと吹いた風に柔らかな黒の羽が舞う。 影はやがてゆっくりと動きだし、覆いかぶさるようにして魔女の顔を覗き込む。 ―――気づいて、しまったんだ。 いいや、気づいていたけれど分からない振りをしていた感情を、受け入れてしまったんだ。 気づいて、しまったんだ。 自分の中に初めて芽生えた、『嫉妬』という感情のせいで。 影の右手が、そっと魔女に伸びた。 おそるおそる。 おっかなびっくり。 触れていいかどうか、躊躇うような素振りで。 白く艶やかな肌に、触れかけた。 「遅いわよ」 穏やかな声色に感情が昂って、つい封じ込めていた衝動を解き放ってしまいそうになる。 「今まで何をしていたの? クラウ」 最後に名前を呼ばれたのがもう何か月も前だったような錯覚。たった数時間、時を共にしていなかっただけなのに。 「……シエル、俺はどうすればいい」 行き場をなくして彷徨っていた手に、シエルがそっと触れて、指を、絡めた。 「どうもしなくていいわ。だってあなたは、私の下僕」 下僕。 主人が赦すまで、自由になることはできない。しかしきっとこの魔女は、もう自分を放してはくれない。 それがわかっていて尚、この手の温もりが愛おしくて、離したくなくて、たまらなかった。 「あなたの心は私のもの。そうでしょう?」 熱を帯びた青の瞳が、俺を射抜いて逃さない。 「―――、俺のマスターは、俺の心さえ自由にしてくれないのか」 魔女の視線がそれることはない。 「当たり前だわ。だってあの時から、あなたの心と体は私のものになったんだから」 その言葉に宿る、とろけるような甘い響き。 いつから俺は毒されていたのか――、この魔女の所有物であることを嬉しいとさえ感じ始めている。 「俺は、」_ 手をさらに深く絡める。弄ぶようにしたあと、握り返す。 ――引き寄せらて、顔が近づく。 「逃してなんて、あげないわ」 そう言って、シエルは彼にそっと口づけた。 衝動を抑えることができず、烏は主人を抱き寄せる。 小さな烏が選んだのは、 魔女の下僕と成り下がる道。 とある国に、『癒しの魔女』と呼ばれる者がおりました。 彼女はそれはそれは怠惰な魔女でした。 いつしか、彼女の側には常に黒い影が寄り添うようになりました。 影は自ら言いました。 自分は"魔女の虜である"と。
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